著者は長年学習塾業界に携わり、全国の多くの塾長へのインタビューから、その教育哲学に感化されてきた。ここでは、彼ら塾長や、あまたの教育改革者たちの発言を紹介。ひとりひとりの、学びの先の進路に思いを馳せたい。
私事で恐縮だが、浅草が好きで月一回は散策に訪れる。コロナ禍後、海外の旅行者も戻り、いつも大変な人出だ。
ところで塾は浅草と縁が深い。
「夕食を食べると、私は包みを抱えて宮戸座の近くまで『夜学』に通いました。包の中にはナショナル読本と論語が入っていました」これは作家久保田万太郎「浅草風土記」からの抜粋。万太郎は明治22年浅草田原町生まれ。浅草小学校から府立三中(現両国高校)へ進学している。『夜学』とは当時、学校の教師が自宅で子どもや青年たちに学問を教えていた私塾のこと。明治19年「帝国大学令」「中学校令」「小学校令」が公布され、一般市民にも教育熱が高まり、熱心な若い教師による教室外の学び舎が数多くあった。ちなみに万太郎は府立三中を四年時落第、慶應義塾普通部へ編入、後慶應義塾大学文学部へ入学、永井荷風の生涯に渡る薫陶を受ける。
万太郎が三中に入学した11年後の明治45年2月、元浅草小学校教師、島本龍太郎が同地馬道通りに「島本時習塾」を開塾する。これが江戸から幕末の寺子屋とは異なる、今の塾の起源というのが、業界の定説である。
同塾は、龍太郎・正・忠正塾長と三代続いた。
地域に根ざした同塾は愛され続けた。卒塾生のブログにこうある。「花川戸塾舎の寺子屋的な雰囲気は下町らしくすごく好きでした。中学校よりも島本塾のほうが、我が母校として色々楽しかった思い出があります」(加藤実著『学習塾百年の歴史』所収、第九章島本時習塾三代記)
なぜそんなに人気があったのか、続きは次号で。(敬称略)