著者は長年学習塾業界に携わり、全国の多くの塾長へのインタビューから、その教育哲学に感化されてきた。ここでは、彼ら塾長や、あまたの教育改革者たちの発言を紹介。ひとりひとりの、学びの先の進路に思いを馳せたい。
前回にひき続き、浅草にあった島本時習塾について。明治45年2月に開塾した同塾の名は、孔子の論語第一節「学而時習之、不亦説乎」(学びてときにこれをならう。またよろこばしからずや)から命名している。
戦争で中断したが、二代目正塾長が戦後ベビーブーム初期に再開、生徒12人からはじまり、昭和28年に300人、36年に千人を超えた。当時の朝日新聞に「浅草の子とともに50年、時習塾島本龍太郎翁、慕う教え子一万人」と報道されている。
しかし商業主義的な拡大を計ったわけではない。同塾50年史『浅草私塾記』にこう書いてある。「教室数は浅草にこだわり三教場。昭和30年代に拡大戦略をとった他の進学塾とは異にし、」と。また正塾長が刊行した『80年史、下町の子どもとともに』でも、「塾はただ進学のみを目的とするのではなく、広く人間教育に向かって進むのが正道であると心得るべきです」と書く。当時他塾が企業化し、数を目的に拡大化へとつき進んでいた時、同塾は独自路線を選んだ。そして正塾長は続けて「それにしても塾教育について一つの理念を胸にいだいた。それは受験教育から学習で鍛えるのも致し方ない事ではあるが、その他に 野性的な少年 を塾外教育でつくることも大切なことであると思う」と断言する。
野性的な人間とは何だろう。受験第一の趨勢にあって島本時習塾は何を実践したのか…。その象徴が地域一番塾の名を高めた、夏期臨海学校である。この夏期特別学校は初代龍太郎塾長が大正時代から始めた。戦後しばらくして夏期合宿はどこの塾でも始めているが、もちろんそれは100%受験勉強のための夏期講習だ。だがこの塾で実践したのは、あくまで「人間教育」のための臨海学校なのである。 (次回へ続く)