「いつか本を書きたいんです」。そう打ち明けられることが、時々あります。自分の専門を形にしたい。仕事で培ったノウハウを残したい。その気持ちは、私にもよくわかります。
では、本を出すうえで一番難しいことは何か。面白い企画を立てることでも、出版社とのつながりをつくることでもありません。私の答えは、拍子抜けするほど単純です。
「原稿を書き上げること」です。
当たり前だと思われるでしょう。ところが、これができない人が本当に多い。編集者と話していると「企画で終わる人は珍しくない」という言葉をよく聞きます。企画書を通し、章立てを作り、サンプル原稿まで書いた。さあ本番だというところで、ぱたりと筆が止まってしまうのです。
無理もありません。一冊の本には10万字前後の原稿が要ります。章にすれば10章ほど。出版社によっては256ページといった枠が先に決まっていて、書き始める時点で、埋めるべき器の大きさがはっきりしている。その器を、本業の合間に少しずつ満たしていく。想像以上に過酷な作業です。問われるのは才能より、書く時間をどう確保し、どう積み上げ続けるかです。
偉そうなことを言える立場ではありません。私自身、予定通りに書けなかった本は何冊もあります。
『科学の名著50冊が1冊でざっと学べる』(KADOKAWA)は、その最たるものでした。途中で編集者のもとへ相談に行き、「もう書けません」と正直に伝えたほどです。50冊を読まなければ、一文字も書けない。予備校の授業を続けながらでは、原稿はまったく進みませんでした。二度目の相談に行ったときには、半ば諦めかけていたと思います。
状況を変えたのは、コロナ禍でした。授業の多くが止まり、週の大半を家で過ごすことになった。朝起きて一冊を読み、日付が変わるころまでに原稿を書く。翌朝また次の一冊を開く。そんな毎日を繰り返し、残りの40冊ほどを2カ月で書き上げました。机の脇に、読み終えた本が一冊ずつ積み上がっていく。静かになった部屋で、読むことと書くことだけに向き合う日々でした。
あの2カ月で思い知りました。本を書くのに必要なのは、特別な才能ではない。書く時間をつくり、書き終わるまでやめないこと。地味ですが、それが全てだと言ってもいい。
出版社が「最初の一冊」で見ていること
出版社の側に立つと、この問題の重さがよくわかります。
本づくりが動き出せば、編集者だけでなく、校正、デザイン、印刷と、多くの人とお金が動きます。原稿が上がらなければ、その全てが止まる。だから出版社は基本的に、完成原稿がそろうまで本格的には動きません。動き出す前なら、原稿が途中で止まっても企画ごと手を引けばいい。けれど、いったん走り出してからでは、そうはいかないのです。
私の場合は、何冊か出してきたおかげで、最近は原稿が半分ほどの段階から動いてもらえることがあります。「西村先生なら、遅れても最後は書き上げるだろう」。そう思ってもらえているのでしょう。それは締め切りを守ってきたから得たものではありません。遅れても、最後には必ず原稿を届けてきた。その一点で、少しずつ積み上がった信用です。
裏を返せば、初めての著者にはこの信用がありません。最初の一冊で問われるのは、企画の面白さと同じくらい、「この人は最後まで書き切れるのか」という一点なのです。
本を出す人と、出したいままで終わる人。その差は、企画の良し悪しよりずっと手前の、地味なところで生まれます。企画書をつくることと、一冊を書き上げることの間には、想像以上に高い壁があるのです。その壁を越えた人だけが、書店に並ぶ自分の本を手に取ることができます。
では、どうすればその壁を越えられるのか。次回は、私が実際にやっている必勝法「逃げられない仕組み」についてお話しします。
